『最後から二人目』 漂流図書館
収蔵記録 No.049
『最後から二人目』
漂着地点:イムナの村
著者:話し相手
推定年代:雨の前
保存状態:発話可/会話不可
山を三つ越えた先に、イムナの村がある。
電気はない。水は山から引き、火は薪で起こす。
畑で芋や豆を育て、森で木の実を採り、ときどき獣を狩る。
村の外へ出るには、細い山道を二日歩かなければならない。
昔は百人近くが暮らしていたらしい。
今は十二人。
そのうち、イムナ語を母語として話す者は二人しかいなかった。
タルクとトゥマ。
二人とも八十を越えている。
同じ年に生まれ、家も近かったので、だいたい雑にセットで育てられた。
幼いころ、タルクの母親が畑へ行くときは、タルクとトゥマをまとめて木陰に置いていった。トゥマの父親が川へ行くときは、二人まとめて連れていった。
どちらがどちらの家で夕飯を食べても、誰も気にしなかった。
本人たちも気にしていなかった。
八十年経っても、だいたいそんな感じだった。
朝、タルクが家の前で籠を編んでいると、トゥマがやってきて何か言った。
タルクが顔を上げ、何か返した。
トゥマが笑った。
タルクは笑わなかった。
代わりに、編みかけの籠でトゥマの膝を叩いた。
少し離れたところで、若い男が目を輝かせていた。
録音機を両手で持っている。
「今の、もう一度言ってもらえますか」
共通語だった。
タルクとトゥマが男を見る。
「何を」
「今のです」
「どれのことだ」
「タルクさんが最後に言った言葉です」
タルクは考えた。
「忘れた」
男は肩を落とした。
トゥマが笑って何か言った。
タルクも何か言った。
二人とも笑った。
男の目がまた輝いた。
「今のは?」
「忘れた」
「え、まだ言ったばかりでしょう」
「やれやれ、お前は忙しいな」
それは共通語だった。
男は年に何度か村へ来た。
遠い町の大学で、消えゆく言語を研究しているという。
名前はセトといった。
村の者はみな彼を知っていた。
セトは来るたびに大量の紙と鉛筆と録音機を持ってきた。
「これはイムナ語で何と言いますか」
石を指す。
タルクが答える。
「これは?」
木を指す。
トゥマが答える。
「雨が降りそうだ、は?」
二人が同時に答えたが、違う言葉だった。
セトの目が輝いた。
「違いますね」
「違わない」
「違うだろ」
「お前のは、もう降ってる」
「降ってない」
「あれは降ってる雨だ」
「まだ降ってない」
二人はしばらく言い争った。
セトは夢中で録音した。
あとで意味を尋ねると、二人とも、
「雨の話だ」
としか答えなかった。
かつて、この村では誰もがイムナ語を話した。
共通語は、山の向こうへ塩や刃物を買いに行く者が覚えるもので、村の中では必要なかった。
やがて若い者が町へ出るようになった。
町で働き、町で家族を持った。
たまに子どもを連れて帰ってきても、その子どもたちはイムナ語を知らなかった。
村に残った者たちも共通語を使うことが増えた。
その方が、誰にでも通じた。
誰かがイムナ語を捨てようと言ったわけではない。
禁止されたこともない。
ある年から突然、使われなくなったわけでもない。
ただ、少しずつ便利な方へ移っていった。
気がつくと、イムナ語で冗談を言って笑えるのは、タルクとトゥマだけになっていた。
本人たちは、そのことをあまり気にしていなかった。
夕方になると、山から虫の声が降りてきた。
トゥマが空を見て、何か言った。
タルクが首を振って、別の言葉を言った。
トゥマがもう一度言った。
タルクも言い返した。
セトが録音機を持って近づいた。
「何の話ですか」
「虫だ」
「虫がどうしたんですか」
タルクが山を指した。
「あれが鳴いてる」
「何という虫ですか」
トゥマが答えた。
セトは急いで書き留めた。
「さっき、お二人が違う言葉を使いましたよね」
「使った」
「意味が違うんですか」
二人は顔を見合わせた。
タルクが言った。
「鳴き方が違う」
セトは山へ耳を澄ませた。
虫はずっと同じように鳴いていた。
「どこが違うんですか」
トゥマは説明したが、セトには分からなかった。
タルクも説明したが、やはり分からなかった。
セトは二つの言葉をノートに書いた。
その横に、虫の鳴き方の違い。詳細不明。
と記した。
翌年、セトが村へ来ると、トゥマは寝ていた。
その次に来たときも寝ていた。
さらにその次に来たとき、トゥマの家には誰もいなかった。
タルクはいつもの場所で籠を編んでいた。
「トゥマさんは」
「死んだ」
タルクは籠から目を上げなかった。
「いつですか」
「雨の前」
セトは何月か尋ねようとして、やめた。
しばらくして、タルクが言った。
「あいつは最後まで、うるさかった」
それは共通語だった。
それからもセトは村へ通った。
以前より頻繁に来るようになった。
イムナ語を母語として話す者は、世界にタルク一人しかいない。
セトは焦っていた。
まだ聞いていない言葉がある。
まだ知らない文法がある。
植物の名前、道具の名前、昔の歌、子どもを叱る言葉、獲物を分けるときの言葉、雨の言葉、虫の言葉。
「これは何と言いますか」
タルクが答える。
「では、これは?」
タルクが答える。
「『明日、山へ行く』は?」
タルクが答える。
録音は増えた。
ノートも増えた。
セトはイムナ語をかなり理解できるようになった。
辞書も作った。
文法も整理した。
昔の歌も十七曲録音した。
それでも、何かがおかしかった。
ある日、セトは気づいた。
トゥマが死んでから、タルクは一度も、自分からイムナ語を話していない。
すべてセトが尋ねた言葉だった。
セトはイムナ語を勉強した。
自分が録音したタルクとトゥマの会話を、何度も聞いて、発音を真似た。
語順を覚えた。
二人がよく使っていた言い回しも覚えた。
そして次に村を訪れた朝、タルクは家の前で豆を選り分けていた。
セトは隣に座った。
録音機は出さなかった。
イムナ語で、「今日は寒いですね」と言った。
タルクの手が止まった。
セトを見て、少し驚いた顔をした。
それから共通語で言った。
「上手になったな」
セトは笑った。
もう一度、イムナ語で話しかけた。
今度は昨日の雨について話した。
タルクは共通語で答えた。
「よく降った」
「イムナ語で話してもらえませんか」
タルクは豆を選り分けながら言った。
「何を」
「何でも」
「いつも教えてるだろ」
「いや、そうじゃなくて」
セトは考えた。
「話したいんです」
タルクが顔を上げた。
「あなたと、イムナ語で」
タルクはしばらくセトを見ていた。
やがて笑った。
「おまえは、変なやつだな」
それも、共通語だった。
その日の夕方、セトは村の外れを歩いていた。
山から虫の声が降りていた。
以前、タルクとトゥマが言い争っていた虫だった。
セトには今でも、何が違うのか分からなかった。
タルクの家の前を通りかかった。
タルクが一人で座っていた。
隣には、誰もいない椅子があった。
セトが声をかけようとしたとき、
タルクが何か言った。
イムナ語だった。
セトの足が止まった。
反射的に鞄へ手を伸ばした。
中には録音機がある。
タルクがまた何か言った。
少し間を置いた。
誰もいない椅子を見て、もう一度、何か言った。
セトは鞄から手を離した。
虫が鳴いていた。
タルクはしばらく黙っていた。
それから、ふっと笑った。
セトには、
何を言ったのか分からなかった。